リヒャルト先生 来日

10/1~10月末まで、ドイツからリヒャルト先生が来日します。
稽古は10/2(水)から参加されます。

ドイツ支部 リヒャルト師範の経歴 「私の剛柔流人生は、ドイツ・ミュンヘンで始まった」

 1960年代後半、世界中でカンフーブームが沸き起こるなか、私も格闘技に目覚めミュンヘン市内で柔術を習い始めたのがそもそものきっかけでした。
 4、5年後、そこで初段を取ることができましたが、そのうちこれが果たして実戦に役立つのだろうかという疑問を抱き始めました。
 色々な格闘技の先生に相談したところ、紹介されたのが、一番実戦的に優れ、その練習の厳しさでもミュンヘン一と恐れられていた甲田敏男先生の剛柔流空手道場でした。
 甲田先生は、1969年、船迫先生、小川先生と共に剛柔流普及のため、全日本空手道剛柔会よりドイツに派遣されて来られていました。
 柔術の経験もある私は意気揚々と甲田道場の体験入学に出かけました。
 練習が始まると、いきなり一列に並んだ道場の5、6人と次々組手をすることになり、その数秒後には柔術初段としての私のプライドも何もかも打ち砕かれることとなったのです。肉体的にも精神的にも打ちのめされた私は、その日這うように家に帰りました。
 そして、このような練習に耐えていかなければ真に強くはなれないと痛感したのです。その後、私は柔術をすぐにやめ、甲田道場に入門することになりました。
 甲田道場での稽古は、甲田先生が日本でやられてきた鍛錬そのままで、私がそれまでに全く経験したことのない厳しいものでした。
 稽古は基本、移動、約束組手、自由組手、型といった流れでやっていきますが、猫足立ち、三戦立ち、四股立ちは特に繰り返し厳しく教え込まれました。無駄な動きや集中力を欠いた散漫な態度には常に先生の竹刀が飛びました。

 私はその厳しい稽古を休むことなく続け、そのうち道場の上位グループに上り詰めることができました。
 甲田先生と少数の弟子で行う特別稽古にも定期的に参加しました。
 サイや試し割も有段者には当然のこととして教えられました。試し割には、5~6センチの厚さの板を吊るし、正拳突きや背刀、前蹴り、横蹴りなどで技を確認しました。
 甲田先生自身、吊り下げた赤れんが、板、瓶などの試し割でドイツ国内では大変有名でした。
 国内で行われる空手道大会には先生がよく招待され、その技を披露しましたが、観客を驚嘆させたことはいうまでもありません。
 このように甲田道場はドイツでかなり有名で、駐在員や出張などでやって来る日本人も流派を問わず稽古によく来ていました。
 私たち甲田道場の者たちも、自分たちの力試しに流派に関係なくいろいろな空手道場に「道場破り」に出かけました。
 私たちは力だけでなく、その容赦ない荒々しい技でも噂になっていました。組手が始まるや、相手の中には私たちに恐れを成してすぐに逃げ出す者もいれば、余りの力の差に戦意を失ってやめようとする者もいて、ほとんど勝負になりませんでした。

 こうして狭いミュンヘンの中では私たちは無敵だったわけですが、私たちと甲田先生との実力の差は余りにも大きく、先生はいくら頑張っても近づくことのない、いや全く足元にも及ばない偉大な目標だったのです。
 しかし今思うと、だからこそ、わたしたちは空手への情熱を失うことなく、更に上を目指すためのモチベーションを持ち続けることができたのだと思います。それと共に、青年期の私を肉体的にも精神的にも鍛え上げ、成長させてくれた甲田先生と剛柔流空手に深く感謝しています。
 そして人生後半を過ぎた現在、私にとって雲の上の存在でもある憧れの山本館長のご指導を直に受けられる機会をこちらで頂き、大変光栄に思います。

 この錬成館の一員としてだけでなく、未熟者の私を師範会にまで快く迎え入れて下さった山本館長、本沢会長そして師範会の役員の方々には、言葉に言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。 
 同時に自分の至らなさを改めて感じ、心技ともに益々絶え間ない精進が必要だと痛感する毎日です。
 剛柔流は私にとって、過去も現在もそして未来も私の人生の核を成すものであります。

リヒャルト・クラックラウアー
iko.goju.germany.munich@t-online.de

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